文章

私は自分の文章が上手いと思ったことは一度もない。

 

昔から読書感想文を書くのが苦手だった。

読書は大好きなのに、それを書くことだけは全く別の作業だった。

夏休みの最後にいつも泣きながら仕上げていた。

 

長い文章を書くのが苦手だった。

大学で数多く出されたレポート課題、話の要点をまとめていくとどうしても必要最低文字数を満たすことができなくて、まあでも内容は詰まっているからいいだろう、と半ば傲慢な気持ちでそのまま提出することが頻繁にあった。(よく単位を貰えていたものだ)

 

 

舞台観劇を度々するようになってから、痛感したことがある。

それは「感想」とは自分の脳の範囲から出ていくことは決してないということだ。

どんな作品を見ても、それを受けて私が出す解釈や感想は、今まで私が見てきた事象や思考、物語、文脈に因るもので、そこから発ち考えることでしか、自分の中にその作品を落とし込む方法はない。

今までの自分の中にある文脈に照らし合わせることのできない作品だったらそのまま「わからない」で終わってしまうし、(なるべくそうならないように考え続けるけど)

 当てはめることができ、うまく解釈ができたと思ってはいても、自分の脳の外に、もっと適う答えが落ちているのではないか。

どんな作品を見ても、常に、既に自分の中にある答えしか導き出すことはできない。

そのことに気付き、自分の思考の狭さに嫌気が差した。

 

本、というのは、私とは違う考えを、私にも理解しやすいような言葉で示し、思考の幅を広げてくれるものだと思っている。

舞台は違う。舞台は、私とは違う考えが、そのまま目の前に提示される。

それを読み解く方法もあるのだろう。

でも私はまだ舞台の読み方が掴めていなくて、今までの自分の文脈でしか読み解くことができない。

圧倒的に語彙が足りない。

自分が小さい。

 

 

ああ今用いた「語彙」とは、「言葉」みたいなことだ。

私達は一見同じ日本語を話しているように見えるけど、違う。

使用している「言語」がたまたま同じ日本語なだけで、実際に話している「言葉」はその本人の生活環境、思想、哲学、性別?そういった背景によってたとえ同じ単語を発したとしても全く違う意味を持ってくる。だから日本語話者同士でも言葉が通じないなんて事態は当然に起こりうる。

 

舞台を噛み砕くには、今の私にはそうやって「言葉」を読み取るという方法しかない。

というかそういうものだと初めは思っていたのだけど、続けていくうちにどうやら他にも読み込んで良い要素は無数にあるらしい、と気付いた。

その作業にはだんだんと慣れていくとしても、今の私には「言葉」を読み解くしかないのに、その前提に置く背景の知識があまりにも少な過ぎるんじゃないか?

あーーー嫌だ 嫌だ

 

 

 

人前に出す文章とは、自分の中にある、自分にしか通じない言葉を他の人にも読めるように書き換えていくものだと思っていて、

その上で先日のキンキーのメモとか、こんな文章とかは、あまり見栄えの良いものではないなあと思ってはいるのだけど、

それでもそれが必要な時もある、と考えることができるようになったのは進歩だろうか