『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』考察

●はじめに

推し(三浦春馬)と推し(平間壮一)が10年ぶりの共演、

しかも東宝ミュージカルで2人ともプリンシパル

しかも巨匠アンドリュー・ロイド・ウェバー日本初演作品、

しかも、いつか推しの出演作で通ってみたいと常々思っていた大好きな日生劇場での上演、

ということで、情報解禁があった時からずっとずっと楽しみに待っていた作品、『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』。

その上演期間中の日本がまさかこういった状況になっているとは、本当に、去年の12月の段階ですら想像もしていなかったのだけど、運良く、と言うか、執念と言うか、

11公演中の7公演(2人が揃う回の全6回+もう片方のダブルキャスト1回)を観劇することができたので、そのせめてもの記録として、何よりも自分のために、観劇して考えたこと、感じたことを書いていきます。

ネタバレたくさんです!めちゃくちゃ長くなっちゃった!

あとくれぐれも個人の解釈なのでこれが正解とか言いたいわけじゃないです!!

 

 

●あらすじ

1959年ルイジアナ。脱獄した一人の「男(ザ・マン)」(三浦春馬)は命からがら、ある納屋に身を潜める。偶然彼を見つけた少女スワロー(生田絵梨花)は、彼をイエス・キリストの生まれ変わりだと信じ、「死んだお母さんにもう一度会いたい」とお願いする。その願いを打ち明けられたザ・マンは、汚れなき瞳を持つスワローに自分の本性を打ち明けることができず、キリストとして過ごすことになる。日々を過ごす中でスワローは次第に彼の正体に気づき始め、2人は男を追う街の人々との騒動に巻き込まれていく・・・(公式サイトより引用)

STORY | ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド ~汚れなき瞳~ 2020年3月上旬上演

 

●ダイジェスト舞台映像


『WDTW』ダイジェスト舞台映像

 

 

 

●エイモスについて

ダブルキャストを両方観て驚いたんですけど、東啓介くんが演じたエイモスとは随分印象が違ったので、私は平間壮一エイモスを主軸として感想を書いていきますね、と念のため注意書き。

 

平間エイモスの印象は、ヤンチャな田舎ヤンキー。ちょっと女関係にだらしなくて、若くて青くてどうしようもないやつ。

でも自分なりの信念みたいなものは持っていて、閉鎖的なこの町も、その空気を作っている大人たちも、くだらなくて腐ってると思っている。早くここから抜け出したいというフラストレーションばかりが募る。

なんとなく流れで付き合うことになった(劇中にそういった描写はないのですが平間エイモスはそういう印象でした(笑))キャンディとはそんな苛立ちのエネルギーで共鳴しているのだけど、幼馴染のスワローへの思いも忘れられなくて、はっきりしなくて、そのせいでキャンディを傷付けて怒らせてしまって、スワローの秘密(ザ・マンを匿っていること)が暴かれてしまう………

という、推しが演じる役ながら初めて観た時は、「いや、エイモスが悪いよね?!?!!」という感情も抑えきれなかったなかなかなクソ野郎くん(笑)

 

そんな感じもあって少しわかりにくいのですが、エイモスはこの作品の中では光なんですよね。

 

一つは、キャンディにとっての光

黒人のキャンディを、黒人だから、という理由で遠ざけずに1人の人間の女の子として対等に扱っていること。

勉強不足で申し訳ないですが、あの時代のあの場所で自然にそういった態度を取れる白人男性は、かなり珍しい価値観を持っていると言えるのではないでしょうか。

その辺りに関しては、こちらの方のブログに詳しく記載があります。(勝手にリンクすみません)

note.comエドワードが黒人だということも、キャンディへの激しい忠告、ブーン家・農場の使用人のような感じで働いていること、保安官からの扱い等から見るに、確実だと思います。

(特に郷本さんが演じてらした保安官はキャンディへの扱いも酷かったので、強烈な白人至上主義者なんでしょうね。)

 

どうしようもないやつだけど、大人たちの差別意識に流されず、自分の感覚を信じて判断することができるエイモスだからこそキャンディを救える。

そのことが大事なのだと思います。その人でなければ救えない存在があるということ。

 

エイモスの光、もう一つは、ザ・マンが焦がれる光

ザ・マンが生きていくうちに失ってしまった、人生の可能性をまだ持っている存在。それがエイモス。

エイモスがどうしようもないやつであればあるほど、「それでもこの若者にはまだまだ長い将来があって、この先の人生をどうとでもできる可能性を持っている」ということが強調されます。(余談ですが私は、エイモスとキャンディが18~19歳くらい、スワローが16歳くらい、ザ・マンが20代後半~30代前半というつもりで見ています。)

ザ・マンは、エイモスが「若い時期は今しかない、チャンスを逃すな」と言いながらスワローに迫る様子を納屋から覗き見て、自分が失ってしまった人生の可能性、光を強烈に思い出して苦悶します。

 

以下はその場面「キス(A Kiss Is a Terrible Thing to Waste)」の歌詞の、聴き取れて覚えているフレーズの書き起こしです。(()部分は記憶に自信がなかったり、聴き取れなかった、または思い出せない部分なので、もし覚えていらっしゃる方がいたら教えていただけると大変喜びます…。)

 

エイモス「夜の帳に俺を呼ぶ声 (なぜこうなる?なぜこうした?)」

ザ・マン「夜の帳が俺を狂わす なぜやらずに なぜ叶えなかった

(失くした光) 歪んだ真実 巻きつく鎖 ()言葉」

2人共通「人生なんて後悔だらけ なぜこうなる なぜこうした」

「寂しい言葉だぜ もしそうなれたなら

虚しいだけの言葉 俺()」

「「今より若くはなれない 今この時があるだけ」」

スワロー「自分がわからない」

エイモス「チャンスを逃せばツケを払う羽目になる 俺を信じて 信じて」

「キスが扉開けるだろう」「今がその時なんだ」「見つけてくれ (ちゃんとお前の答えがある)」

ザ・マン「傷付けたら殺す」「あの子に頼んだ」「忘れないでその君を」「飛び出せたなら」

エイモス「味わったことのない喜び待ってる 無邪気すぎるキスが扉開けるだろう」

 

 

●人生の後悔とその肯定 ~「もしそうなれたら」

ザ・マンの背景は劇中で詳細には描かれていないけど、「独白」を聞く限り、

誰にも理解されず、貶められ、虐げられ、蔑まれ、騙され、裏切られて、どうしようもない環境の中で自分でも犯罪を重ねてしまって、ろくでもない辛い人生を送ってきて、

「なんでこうなるんだ、なんで俺の人生はこうなんだ」とずっと苦悶していて、

しがらみばかりが絡みついたこの身体をもう捨て去りたい、楽になりたい、飛び去りたい、とずっと思っていたのだろうなと想像できます。

 

そうやって必死で脱獄して逃げてきた先で、偶然出会ったスワローに

「もしそうなれたら なんて寂しい言葉」

という言葉をかけられて、やっと救済されるのです。

 

「もしそうなれたら もし取り戻せたら もし蘇るなら

なんてさみしい言葉」

 

たくさんの失ったもの、犯した罪、抱えた悩みも含めて、存在の肯定。

自分が望む通りに生きられない、ままならない人生、それをようやく肯定される。

 

今回の演出ではスワローがそう歌う時に、納屋の中に降り注ぐ光が十字架の形になります

ザ・マンがその瞬間に強烈に救われたことがとてもわかりやすく、美しいシーンでした。

日生劇場の1階席からだとわかりにくい、と言うかほぼ十字架の形が見えなくて、GC階か2階席からでないと気付けないのは、少しもったいなくて、でも特別な感じもしました。

 

 

●ザ・マンを救う愛

以上の通り、「もしそうなれたら」の言葉とメロディは、この作品の中では重要なキーワードです。

このメロディは冒頭、スワローが子猫たちを引き上げて助けた時にも流れています。

つまりスワローの慈愛を表現しているのが、この「もしそうなれたら」のメロディなのかなと。

 

ザ・マンはそのスワローの慈愛に救われるわけですが、もう一つのザ・マンを救う愛。

それは子供たちからの純粋な愛。

お話を聞かせてくれたザ・マンに、子供たちは次々と、自分の大切なもの=自分の愛を与えます。

どうしてそうしたかと言うと、ザ・マンがお話を聞かせてくれたから。

つまり、ザ・マンも子供たちに愛を与えていたから。本人としては、場をなんとか収めるためという意味しかなかったのでしょうが、子供たちにとってはそうではなかった。

子供たちからの純粋な愛を受け取って、ザ・マンの中に変化が生まれていきます。

その変化や行為も、彼の救済に繋がるのかなと思います。誰かとの愛のやりとり。

 

 

●ザ・マンがスワローに与えることができたもの

ザ・マンはスワローに強烈に救われたわけですが、スワローもザ・マンに強烈に救われて、2人の繋がりは深くなっていきます。

スワローと子供たちは、ザ・マンのことを「イエス様の生まれ変わり」と信じ切っていましたが、もちろん本当のところは違いますし、スワローが望むような、死者を復活させる奇跡を起こせるわけではありません。

 

では、ザ・マンはスワローに何を与えることができたのか。

 

それは、スワローが抱える悩みに答えを与えられた、ということだと思います。

誰も答えてくれなかった、父親すら顔を背けて答えてくれなかった悩みに、ザ・マンだけが答えを与えてくれた。(本人にそのつもりがなかったとしても)

 

「スワロー…人生は複雑なんだよ。物事は、ただ起こるんだ。

信じられないようなことが、わけもわからないままに。」

 

その言葉にスワローは救われた。

母親を亡くして以来ずっと抱えていた苦しみ、やり場のない孤独感から抜け出せる道を、ようやく示してもらえたのでしょう。

これはどうしようもない人生を送ってきたザ・マンにしか与えられなかった言葉で、だからこそこの2人が出会うことに意味があったのだろうと思えます。

「もしそうなれたら」で後悔ばかりの人生を肯定されたザ・マンでしたが、ここへきて彼にしかできない救済行為を行うことで、今までのどうしようもない人生がようやく報われたのだなと。

エイモスにしかキャンディを救えないことと同じだと思います。その人でなければ救えない存在があるということ。誰かにとって自分が必要な存在であるということ。

 

 

●スワローがザ・マンをどう思っていたか

「スワローはザ・マンのことをイエス・キリストの生まれ変わりだと信じ込んでいた」と、あらすじにもありますし、ブーンもエイモスもザ・マンも、彼女が最後までそう信じていたと思っているようでしたが、私は観ていて、スワローにも心境の変化があったのではと感じました。

 

ざっくり書くと、

「この人はイエス様に違いない」

→「この人はやっぱりイエス様じゃないのかもしれない」

「この人がイエス様じゃないとしても、イエス様が私のためにこの人を遣わせてくださったんだ」

という流れ。

 

詳細に書きたいので、次の「プアベイビーの子猫が死んでしまった後の納屋でのシーン」を覚えている限り書き起こしつつ、スワローの心境の変化を想像していきます。

 

(プアベイビーの「どうして子猫は死ななければいけなかったの?」という問いにうまく答えを与えられず、「ほらね!だからこの人はただの人間だって言ったじゃん!」と言い捨てられてしまったザ・マンと、2人きりで納屋に残るスワロー)

スワロー「ごめんなさい、あの子ちょっと動揺してて…」

ザ・マン「ああっ、っ、タバコがあればな…」(小声でこぼす)

スワロー「えっ?」

ザ・マン「つまり俺が言いたかったのは…!みんな死ぬってこと!

子猫だって死ぬ、チャーリーだって死ぬ、君のお母さんだって、、死ぬんだよ…」

スワロー「っ、つまり、特に意味はないってこと…?」

ザ・マン「意味なんか見つけられないってこと。」

スワロー「でもあなたはっ…!」

 続きに「神の子なんでしょう?」と言いかけて止まったのだと思います。

 俯いて、「この人は本当はイエス様じゃないのかもしれない」という思いが一瞬過ぎります。

 でもスワローのその様子に気付かないザ・マンは続けて、

ザ・マン「スワロー…人生は複雑なんだよ。物事は、ただ起こるんだ。信じられないようなことが、わけもわからないままに。」

 そこで強烈に救われるスワロー。

 「ああ、神様は私のためにこの人を遣わせてくださったのかもしれない」

スワロー「あなたの時もそうだった…?」

ザ・マン「まあ、そんなところかな…」(逃げるように立ち上がる)

スワロー「…わかってないんですよ!みんな、あなたが本当はいい人だって、わかってない…だからみんなしてあなたを…」

 「追いつめて殺そうとしている」というような感じで、町の人たちのことを言いたかったのだと思います。でもザ・マンは、まだスワローが自分をイエス様と信じていると思っているので、

ザ・マン「磔にした?」

 その言葉を肯定も否定もせず微笑むスワロー。

スワロー「でも私はわかってます。それに、あなたを愛しています。」

 「イエス様じゃないとしても。」という意味だということに、自分で言った後に気付くスワロー。ハッとして立ち去ろうとします。ザ・マンはその腕を掴んで、

ザ・マン「っ、おやすみのキスをしてくれる…?」

スワロー「…今晩死にかけたけど、怖くなかった。あなたがそばにいてくださるって、わかってたから。」

 

このシーンを経て、スワローも、キリストの生まれ変わりとしてのザ・マンではなく、後悔ばかりの人生を送ってきたザ・マン自身を必要とするようになっていくのです。

 

 

●「誰もあなたのように見てはくれなかった」

スワローがザ・マンを納屋に匿っていることが町の人たちにバレてしまい、クライマックスの納屋のシーンでは、お互いのことを守りたいザ・マンとスワローで激しい攻防となります。

スワローを巻き込みたくなくて、どうにかこの場から立ち去らせようとするザ・マンと、彼のことをひとりきりで死なせたくないスワロー。

「俺はろくでもない奴なんだ、イエス様じゃない、どうして信じてくれないんだ」と激しく訴えるザ・マンに、スワローは「私には本当のあなたがわかってる、あなたは蘇ったって信じてます」と何度も強く言い返します。

ザ・マンはきっとその言葉もキリストの復活のことだと思っていたのでしょうけど、スワローが言いたかったのは、この納屋の中で、ザ・マン自身の魂が蘇ったということだと思います。

今まで不本意に酷い人生を送ってきたのだとしても、あなたは私を救ってくれた。

余談ですが、スワロー=ツバメは、キリスト教では「復活」の象徴とされているそうです。

 

言い合いの中で「私には何もない…!」と崩れるスワローに向かって、ザ・マンは「それは違う!そんなこと言うな!」と叫んで、「キス(A Kiss Is a Terrible Thing to Waste)」と同じメロディで「人生なんて後悔だらけ」と訴えて、崩れます。

「もしそうなれたら」が救済のメロディなら、「キス(A Kiss Is a Terrible Thing to Waste)」は後悔のメロディなんでしょうね。

ザ・マンのもとに駆け寄るスワロー、「誰もあなたのように見てはくれなかった」と歌う2人。

あなたが、あなた自身が必要、という思いが通じ合ったのだと思います。

 

誰かに必要とされること。

お互いを必要として、思いを分け合うことが愛。

人生は後悔だらけで思うようにいかないけれど、そんな自分だからこそ誰かを救えたり、誰かに必要とされたりすることがある。

 

そういったメッセージかなと思いました。

スワローを抱き締めて、彼女のことを汚せないというように恐る恐るおでこにキスをするザ・マン。その光景は本当に美しかったです。

 

スワローに最後の嘘をついて追い出して、一人で納屋に残り、火をつけるザ・マン。

燃え落ちた後には、納屋の梁が十字架の形となって残ります。

彼の魂は身体から飛び去り、救済されたのでしょう。

 

 

●神のしるし

この作品のテーマは、ブーンが歌う歌のフレーズにヒントがあるように感じます。

「もし彼女がいれば言うよ

人生はつらい でも生きるの

大事なことはそこにある

神は我らを導きたもう」

(今抱くもの(Grown Ups Kill Me))

 

「あの風に吹かれてごらん

空高く翼広げ解き放たれよう

友よ決して離れない

あなたのしるしすべて受け止める

そう最後まであなたのそばに」

(ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド(Whistle Down the Wind))

 

この「Whistle Down the Wind」は、神と私、の視点の曲なのだと思います。

 

ままならない人生。

祈りの言葉がすべて届くわけではない。

理不尽なことは理由もなく起こる。

でも懸命に生きて、生き抜いて、愛とともに生きれば、救済は訪れる。

神様が与えてくださった愛のしるしを決して見逃さないこと。

 

ロイドウェバー氏はそういったことを伝えたかったのでしょうか。

 

ザ・マンはどうしようもない人生の最後に救われた。

しがらみばかりの身体から解き放たれて、魂が救済された。

スワローは出口の見えなかった悩みの渦の中から救われた。

ザ・マンと過ごした時間は、スワローがこの先の人生を生きていく中で光になる。

 

 

●神の救済

ザ・マンがスワローと子供たちによって救済される様子を見ていると、『レ・ミゼラブル』の冒頭で、ジャン・バルジャンが司祭に救われて生まれ変わるのと同じだなあと思います。

「愛することは神様のおそばにいること。」

キリスト教徒にとって、人生とは天国への旅路なのでしょうね。

スワローとブーンが、レミゼでもコゼットとバルジャンを演じてらした生田さんと福井さんだというのは、観ていてなんとも不思議な感覚でした。

 

 

●まとめ

この『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』という作品が日本で上演されるまでに時間を要したのは、こういったキリスト教信仰や、舞台となっている土地の人種差別意識などを肌感覚で理解することが、なかなか日本人には難しいからなのでは、と個人的には思っています。

蛇遣いの集団のこともわかりにくいですよね。個人的に調べた限り、彼らは「サーペント・ハンドラ」と称される宗派なのかなと思います。

(参考:「サーペント・ハンドラーズ(serpent handlers)について」

 「サーペントハンドラ」 )

未知の脅威に混乱して集団ヒステリーを起こしている民衆の、不安な心の隙間に怪しい宗派がつけ入ってくる、ということかなと。

そうやって惑わされてしまう人々と、純粋な信仰心を忘れないスワロー、という対比になっているのでしょうか。

私はキリスト教徒ではない上に勉強不足ですので、ひとつずつ調べた知識や、物語の中から受け取った感覚を頼りに想像していくことしかできませんが、そうやって想像をしていくことで、自分とは異なる文化圏の人々にも思いを馳せたり、共通の感覚を知ることができるのではと思います。

 

こういった作品が限られた人の目にしか触れられなかったのは非常に残念なので、是非再演や、映像化、音源化を希望したいところです。

 

 

 

 

 

 

 

●推したちのこと

作品の考察だけでめちゃくちゃ長くなってしまったので書くか迷ったのですが、せっかくなので少しだけ。

 

2人とも更に歌が上手くなっていて驚きました。

音域も更に広がって、「独白」のロングトーンでも一度も途切れなかった春馬くん。

低音が更に魅力的になっていた壮一くん。

2人のお芝居も本当に好きだなと、観ながらずっと思っていました。

共演と言っても、2人が同時に舞台上にいるシーンはそんなに多くはないんだろうなとは予想していて、実際その通りだったのですが、唯一一緒に歌う「キス(A Kiss Is a Terrible Thing to Waste)」が本当にカッコよくて、2人の歌声が大好きなので同時に歌われると脳を引っ掻き回されるみたいで、まだまだ全然見足りませんでした!笑 あの瞬間、日生劇場で一番幸せだったのはきっと私です。

 

この作品をずっと楽しみにしていたけど、観る前は少し不安もありました。2人を同時に見たら、好きという感情の量に差が生まれてしまうんじゃないかとか。

でも実際に観劇したら、2人とも大好き!!!!!という感情しか生まれなかったし、その大好きの種類もそれぞれちょっとだけ違うな、ということにも気づきました。

2人の共演を見ても大丈夫だということがわかったので、是非また共演をお願いしたいです。笑

 

ファンの贔屓目かと思いましたが、2人の声の相性も、演技の相性も良いなと感じたので…。まあ、演技の相性が良いのはそりゃあ同じ指導のもとで育ってきたのでしょうから当たり前かもしれませんが。

スリル・ミー(平間私・春馬彼)とか、RENT(平間マーク・春馬ロジャー)とか、デスノート(春馬月・平間L)とか、髑髏城の七人(春馬捨之介・平間霧丸)とかが観たいな!!!!!!!(突然欲望を爆発させる)

 

地方公演も含めて2人の回は15回ほどを観劇する予定が、6回だけになってしまって、本当に残念でしたがでも後悔はないです。

この酷い状況の中で、一度も幕が上がらなかった作品もたくさん生まれてしまって、あの1週間は夢の逃避行のようでした。

それでも個人的にはまだまだ全然観足りないので、WDTWの再演も、別作品での再共演も望みます!!!待ってます!!!!!

 

皆さまどうぞ生き延びて、また劇場でお会いしましょうね。

ご自愛くださいませ。