2021年7月のこと(歩くスピードで)
ぼんやり思想と死生観のお話しなので読むの嫌な人は読まないでください。
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高校生の頃から好きなバンドがいます。
5年前にそのバンドのヴォーカルは病気が原因で亡くなりました。
(気になる人は「BOOM BOOM SATELLITES」で検索すると詳細が出てくると思います)
今月のはじめ、そのバンドのもう1人のメンバーが新しく組んだバンドの初ライブがありました。
運良く状況に恵まれて行くことができて。BOOM BOOM SATELLITESの曲も1曲演奏してくれて。
あーーーやっぱりこの人の作る音楽が大好きだーーーと思いました。
そして、アーティストを、誰かを好きになるということは、自分の心の一部をその人に預けるようなものだな、ということを実感として感じました。
私が彼らに預けていた心を、「ああ、確かに彼らに預けていたのだ」と思い出すことができて、迎えに行くことができたような感覚になりました。
その実感のおかげで、彼はここにいない、ということとようやくまっすぐ向き合えるようになった気もします。
大好きだけどもう行くことは叶わないと思っていた場所。そこに近い場所へ行くことができたからでした。
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別の、大好きな彼のことから、1年が経ちましたが、
彼へ預けている私の心も、いつか迎えに行ける時は来るのでしょうか。
わかりませんが、来るのかもしれないし、
来なくてもいいのではないかとも思っています。
私はたしかにあの人に預けているな、ということを忘れずに日々を過ごして時々取り出して撫でて、
そう、彼に私の心を預けていることは忘れないでいたい。
私は彼がいない自分の将来の人生なんて想像していなかったから、
やっぱりあの日に私の人生は一緒に失われて、今は別の人生を生きている、そういう感覚で過ごしていたら1年が経っていました。彼のいない世界は嘘の世界を生きているみたいです。
この文章が必要以上に詩的にならないように気を付けてはいたのですが、結局そうなってしまっている気もします。
必要以上に悲劇的になりたくないし神聖視もしたくない、彼がいる時と変わらず平熱で愛していたいです。
ここから少し私の死生観の話になりますが、
死ぬって本当に悲しいだけのことなのかな?というのは自分の人生でずっと考えている思考のテーマでもあります。
死が悲しいだけのことなら、死によって今までのその人との事柄が全て悲しいに塗り替えられてしまうなら、人間みんな必ず死ぬのに、じゃあ、自分が最後に死ぬ頃には先に亡くなったすべての人との記憶が全部「悲しい」になってしまうじゃないですか。家族や大切な友達との記憶もすべて。
それこそが悲しいと私は思います。
「死」は悲しい、それは覆らないと思うけれど、悲しいのはあくまでその「死」の事象だけで、
その人と過ごした楽しい、嬉しい、幸せ、全ての記憶はそのまま「楽しい」「嬉しい」「幸せ」で、「悲しい」に塗り替えられることはない、と、私はそう信じています。
BOOM BOOM SATELLITESや春馬くんの作品に触れて欲しいし、
素晴らしいと感じてもらえたら嬉しいし、
願わくば、「こんなに素晴らしい「のに」」とは思わずに、ただ作品だけを感じてほしいなと私は思っています。
でも難しいのかもしれないですね、彼らの作品に触れる時はどうしてもその事実が頭に浮かんでしまうのかもしれないし。死はやっぱり悲しくて強烈な事象だし。
自分でさえ難しかったりする時もあるので、だから強制はせずに私だけでもそうしていたい、平熱で触れていられるように努めたいと思います。
今までと同じように名前を言いたい。そのためにもがきたいです。
今の私の目標は、いつか「三浦春馬」という単語にイケメンの代名詞としての意味を取り戻すことです。(大真面目に言ってます。)(そーいうのがプレッシャーになってたんだとしても、今の私にできるのはそういうことくらいです。)
って、本当はこの文章、春馬くんのアーカイブサイトが公開されている期間中にアップしたいと思って書いてたんですけど、なかなか筆が進まなくて、間に合わなかったなー。
愛していますよ、これからもずっと。
そしてこのことを一緒に抱えてくれる人には、ありがとう、って常に思っています。